草模様



畑仕事とパチンコの合間に
デジカメを持って
旅にでました。

旅といっても
近所を自転車に乗って
走ってきただけのこと でしたが・・・・。

鳥居松本通り(四九の市通り)まで
遠征しました。


伊藤書店跡地近辺


蔦屋酒店 (もう、やめてしまったのかな?)


おもちゃの きらくや

さとちゃんが小学校五年生の時
レーシングカーが流行しました。

きらくやサーキットで
僕等は熱い戦いをしたものでした。




四九の市通りには
さとちゃんの求めていた
昭和四十年代の
面影も赤影も白影も
見つからなかった。

わずかに
見つけた写真を載せてみます。


たばこや                 洗張とガラスにかかれたお店
                       洗張って一体 何だ?


少し がっかりしたさとちゃんでした。

それならば
もう少し篠木町の方に行って
以前仕事中に見つけた
ホーロー看板の家へと
向かった。



途中で家を解体している場面に出逢った。

いやな予感がした。

ひょっとして
もう、壊されているのでは?



しかし
ありましたよ。残っていましたよ。
ホーロー看板の家。




看板よりも 壁板の焦げ茶色が 実に美しくて 感動しました。

今度は
古い木造家屋を
見つけるデジカメ旅行を
してみようかな?

一日一感動。

皆さんも感動の多い春を
お過ごしください。




昭和40年代には あちこちでホウロウ看板を見る事が出来ました。



特にバス停のそばにある 
よろず屋〔今風にいえばコンビニ。〕の壁板には
何種類かの看板が 何枚もびっしりと
打ち付けられていました。

僕等が小学校から 高校を卒業するまで 通り過ぎた
昭和40年代。

東京オリンピックが終わってから
オイルショックが起きた時までの十年間。
日本は高度成長時代といわれた。

僕等の親達、大人たちは
エコノミックアニマルと呼ばれても
アメリカに追いつき 追い越すことに夢中であった。

物と金と権力〔地位〕を手に入れることが
なによりも大事で それがすべてであった。

僕等のおとうさんたちは
モーレツ社員とも呼ばれていた。


僕等のうけてきた教育にも影響した。

人間性や情操面より
学力・能力・体力というパワーが
重視された。


僕は
完全に 落ちこぼれましたけど・・・。



僕等は
小学校の時は 現代っ子と呼ばれた。
中学校の頃は 三無主義。
高校・大学の頃は シラケ世代。
とも
呼ばれた。







いつも 見ていて
あたりまえだと



思っていた風景が
三十年経つと すっかり変貌していた。

あの頃に培われた価値観と世界観、人生観は
自分のなかで
どのように
変化してきたのであろうか?

振り返ることで
これからの道が見えてきて
前に
安心して
進んでいけるのではないか?

 ここで自分史をやってみるつもりです。


それでは またな。


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